誰でも同じ事 映画の話
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誰も見てない場末のブログ

ゴジラvsヘドラ


 思い出したように映画について書く。ここは私のチラシの裏。
 ゴジラvsヘドラ。ゴジラシリーズの中でひときわ異彩を放つ一品。

 初代ゴジラは強い反核精神を元に生み出されたモンスター映画である。いわゆるモンスターホラーと異なり、圧倒的な戦闘力と生命力を持ったゴジラをもてあます人類の物語である。しかし他の怪獣を登場させ、怪獣対怪獣という図式が大いに受けたため、徐々に子供向けへとシフトしていった。ゴジラは圧倒的生命力を持った、人類がもてあます野獣としての性質を潜めていった。
 そんな昭和ゴジラの中で登場したのが本作である。本作は子供向け、勧善懲悪を主したゴジラシリーズの中では異質である。ストーリーはこうだ。
 オタマジャクシに似た奇妙な生物が発見される。時同じくして、タンカーが相次いで発生、同じように巨大なオタマジャクシの怪物の目撃例が寄せられる。
 海洋生物研究所で調べたところ、そのオタマジャクシは海洋汚染された環境で活発に動き、巨大化していく性質を持っていた。ヘドロだらけの海から生まれたその怪獣はヘドラと名づけられる。
 ある夜、ゴーゴー喫茶にヘドラが出現。その場に居合わせた客を全て溶かしつくす事件がおきる。そこにゴジラが出現。ゴジラとヘドラの死闘が始まるが、決着はつかなかった。戦闘後に撒き散らされたゴジラとヘドラの破片。そこで、ヘドラの恐るべき性質が判明する。

 ストーリー展開は一部突っ込みどころがある。まず有名な「ゴジラが熱線で空を飛ぶ」シーンだが、荒々しい獣としてのゴジラがただのコミカルな生き物になってしまっている。なんでもスピード感を出すための演出らしいが、ゴジラの持つ巨大さ、重々しさが薄れてしまうほどの軽快な飛行である。
 俳優も飛びぬけて良いという事は無い。全体的に地味であり、いまいちぱっとしない。記憶に一切残らないのだ。怪獣映画なのだから、別に人間の事なんかどうでもいいのではあるが。いや、考えようによっては、人間の描写ばかりで怪獣がおざなりになった、なんちゃらファイナルウォーに比べれば全然良い。
 本作最大の魅力は主題歌となってる「かえせ!太陽を」だろう。このかえせ!太陽をは科学物質の名称を羅列しながら公害の悲惨さを歌ったもので、映画版とレコード版の二種類があるのだが、映画版のアレンジ(?)が絶妙。特にエンディングクレジットで、かきまぜた水と油を背景に麻里圭子の姿は、なんともいえない怪しさと悲痛さが漂っている。
 この水と油の演出は劇中でも使用されており、本作の痛烈な公害非難を彩る最高の演出である。それと共に、これでもかと言わんばかりに登場する''海の上を漂うヘドロ''は、当時の公害問題が当時から考えても滅茶苦茶''異常''であり、舞台が『何もしなかった場合の未来』である事を物語っている。
 幸い、当時の人々の努力もあり、公害問題は広く知られるようになり、未来は知ってのとおり映画のような極悪環境には至らなかった。一部地域をのぞいては。
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  1. 2013/05/08(水) 22:28:43|
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死霊のはらわた


 割とメジャータイトルを好まない真性中二病の私だが、死霊のはらわたは好みの映画である。
 山奥の別荘を借りて止まりにきた5人の若者が死者の書を読んで死霊をよみがえらせてしまう。死霊は次から次へと仲間達に乗り移り、全滅させようと襲ってくる!
 81年のタイトルなだけあってSFXは見劣りするものの、出来の荒さは血の量でカバー! 大量に流れ出る血で隠しアクティブに動かせば作り物感なんてケセラセラ!
 いやぁ、やっぱサム・ライミすげーぜ。亜米利加の侍は外連味あふれる活動写真が上手でござるな!
 話の内容はあってないようなものだが、そもそもこの手の映画に複雑なストーリーなんて期待するほうが間違ってる。この手の映画はむしろ、話を限界まで単純にした方が面白い。ストーリーの矛盾だとか重箱の隅を意識するのは大間違いだ。
 主演のブルース・キャンベルの名演も光る。ショットガンの弾をとってきた後、どこかから襲ってくるであろう悪霊を待ち構える緊迫の表情からは、恐怖・勇猛・戸惑いが入り乱れた極限状況を視聴者に感じさせる傑作シーンだ。もしもこの手のジャンルが苦手であっても、このシーンを見るがために見ておいても損はない。
 個人的にこの映画で最も気に入っているのは一切の同情の無い悪霊の言動だ。悪霊とは、その名が現す通り「悪」でなければならない。だから人間的感情無く、悪意と殺意の塊でなければならない。自身が人間であった記憶すら利用し、相手を陥れる。恋人を主人公の手で殺させ、一瞬の隙をついて恋人の体で主人公を殺そうと襲い掛かる。友人の死体をここ一番というときに乗っ取って襲わせる。ほんのわずかな間だけ元の魂に戻し、主人公の心理的動揺を誘う……これだ! これこそが悪だ! 吐き気を催す邪悪! 死者の書を炎の中に投げ入れようとした主人公の行動も意に介さず、殺意だけを向け続ける姿勢はまさに悪霊。悪霊とはこうあるべきだ。
 死霊のはらわたはホラー映画ではなく、モンスターホラー映画である。その偉大で殺意の塊である悪霊に、ゴジラ同様の敬意を払いたい。
  1. 2012/11/02(金) 21:29:03|
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2000人の狂人を見た


 クソ映画が見たくて「2000人の狂人」と言うスプラッタを見た。
 ドライブ中の6人の北部出身のアメリカ人が、謎の村の100年祭に歓迎されて閉じ込められるというものだが、実はその村は100年前の南北戦争時に、北軍が村人2000人を虐殺して消滅した村だった! 6人は一人また一人と殺されていく……
 と言うもの。「陽気な音楽で笑顔と共にスプラッタ」と言う映画だと聞いてワクワクしていたが、ところがどっこい一人殺すたびに村人は無表情になってしらけてしまう。怒りをあらわにするでもスカッとするでもなく、超ローテンション。音楽もとまってしまい、期待はずれだった。そのため狂人と言うよりも「殺さなければいけない人々」にしか見えず、期待は盛大に裏切られた。
 この手の映画のエンディングにふさわしいのは、全滅エンドか村人が全員消滅する懲罰エンドが良いのだろうが、本作では村人が祭りの後片付けをしながら、「そろそろ寝ないと100年後に起きられなくなるぞ」と雑談しながらぐだぐだだらだら終わるものだった。エンディングのダメっぷりは今まで見た中で有数である。
 俳優の演技もいまいちだが、樽に釘を刺して転がす・笑顔で笑いながら女を解体するといったシーンは中々の狂人っぷりでまぁ良かった。クソ映画ではあるが、時間を無駄にしたという気にはならない、それなりの娯楽作品。
 不意に人生の中で二時間の暇が出来たら見てみると良いかもしれない。
  1. 2011/09/14(水) 16:28:15|
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ランボー再視聴


 スカパで「ランボー」がやっていたので見る。シリーズ一挙放送だったらしいが、残念ながら時間がなかったので1作目しか見る事が出来なかった。
 不幸中の幸いか、1作目を見たのは小学生の時分だったので、内容を全く覚えておらず、新鮮な気持ちで見ることが出来た。
 1作目の「ランボー」はベトナム戦争帰りのランボーが、アメリカ国内で暴れ回るという内容だった。あれ、「ランボー」って戦場でドンパチやる映画じゃなかったっけ?
 「ランボー」はランボーが作中銃をほとんど撃たないので爽快感は低い。が、物語としての完成度は高く、英雄であったはずなのに、戦争の過剰反対により英雄ではなくゲスとして扱われた男の、悲しい反逆を描いている。
 元グリーンベレーがアメリカ国内で暴れるのかよ! と思わせておいて、なんとランボーによる被害者は「M16運送中に車から蹴落とされた軍人」と「たまたま猟銃を持っている時にランボーを見てしまったためナイフを突きつけられた少年」と「攪乱のために爆破されたガソリンスタンドの経営者及び近隣にあった車の持ち主」と「ランボーに勝手に入られ商品を持ち逃げされた銃砲店店主」だけというコンパクトさ。あとはランボーに荒っぽい取り調べをした自己責任の警官くらい。しかも警官達は1人は勝手に墜落死したくらいで、他は全員重傷までである。あ、警察犬が1匹死んでるか。
 だが、構成としては「ベトナムでトラウマを作ったエリート兵士が国内で暴れ回るモンスターホラー」となっている。ランボーは主人公というよりヒールと考えた方が良い。
 なんでそれが2作目で主人公になり、戦場で暴れ回る映画になったかというと、制作中の時点ですでに2作目が決定しており、かつ散々暴れ周りはしたが1人も殺めていないのに、最後ランボーが射殺される結末で作ったらしっくりこなかったからだそうだ。確かに、ランボーは降り懸かる火の粉を払っていたに過ぎない。更に、その時のアメリカ国内情勢を考えるに、ランボー射殺エンドでは「戦争でトラウマを作った軍人は、戦争に勝利できなければ現代アメリカで生きていくことはできない」という、英雄非難軍人非難になってしまう。それは避けたいところだろう。
 2作目以降は爽快感も増し、大衆娯楽としての性質を強めていくが、1作目の内容を考えると、1作目が「ランボー 悲しみの職場復帰」になってしまう。タイトルを変えて別シリーズにしておいた方が良かったような気がしないでもない。
 しかしこのランボー、何かを思い出す。終盤に上官の大佐に「駐車場の仕事すら許されない」と訴えているのが、旧日本軍、太平洋戦後の元士官達に似ているのだ。彼らは戦犯として処刑された者もいるが、職業を制限されてほそぼそとした生活を余儀なくされた者がほとんどだと聞いた事がある。戦争というのは勝てば良いのだが、負ければ国家元首のような上位の人々が勝利国によって討ち滅ぼされるだけでなく、国のためにと命を懸けて戦った士官達は、物理的な被害にあわずとも同国の同胞によって、手痛い仕打ちを受けて人生を滅茶苦茶にされてしまうようだ。自由の国、正義の国と自称するアメリカですらこうとは。どこの国も同じようなものなのだろうか。
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  1. 2010/12/30(木) 02:37:13|
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アンドリューと宇宙からのツタンカーメン


 テレ東でアンドリューがやってたので見た。
 序盤はまあ面白かったが、徐々につまらなくなって行くという中々のクソ映画だった。もしかしたらテレ東側がいろいろとシーンを切り捨ててるんじゃないかとも思ったが、切り捨てていても切り捨てていなくても、あのラストシーンを考えたらクソ映画と言う考えで間違ってないだろう。
 中盤の一家の父親が亡くなる時の「この時がきたか」と言う台詞辺りは非常に素晴らしかった。ただ、その後はずるずるとクソ坂を転げ落ちていく。これはどういうことか。
 おそらく、アンドリューを人間的に表現しているから面白くないんだろう。AIロボットを描く場合、ロボットはロボットであると言う大前提の上で、ロボットにはロボットとしての誇りを持っていた方が面白い。合理的思考を持つロボットが「人間になりたい」なんて、シナリオ担当は相当な馬鹿である。
 よく衝突になるが、友人が「ロボットはボロボロになって壊れながら敵と戦うのがカッコイイ」と言っているが、案外それは間違ってはいないのかもしれない。別に必ずしも戦えと言う訳ではなく、AIロボットと人間の間に友情を描きながらも、ロボット三原則に従い自己犠牲によって身を砕き、人間のロボットに対する友情や、ロボットの人間に対する友情が、「人間とロボット」と言う決して対等になれない関係を美しい物にしている。人間は人間、ロボットはロボット。その境界線を明確にした上で人間とロボットの境界線を曖昧にするからこそ、物語は面白くなるのだろう。
 「人間に憧れるロボット」を描くのなら、アンドリューのデザインをC-3POくらい人間とかけ離れたものにすればより達成感と感動を与えられたと言うのに。その辺を理解していない辺りが、ロボット物後進国アメリカと言ったところか。
 ただ、原作はあのアイザック・アシモフらしい。原作を読んでいないから何とも言えないが、アイザック・アシモフ程の男がああもクソくだらない内容を作ったとは考えにくい。どれほどの改悪を施したのか。やや気になる事項である。
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  1. 2010/12/21(火) 19:27:38|
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